昭和48年01月16日 朝の御理解



 御理解 第70節
 「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」

 お互い道理に合う信心をさせて頂いておるだろうか。道理に合う信心をせねばならぬと。何故成り行きを大事にしなければならないか。どういう訳で起きてくる事柄の一切が御事柄であるか。真の信心もここの所を頂いて行く事が真の信心だと。最近ではどうでも、五つの願いの御祈念成就を、願わなければならない。それは何故なのか。皆さんその事の答えが出てくるでしょう。
 長い言うなら二十年間ですかね、皆さんに聞いて頂いてきた事なんです。それはね人間は万物の霊長だからなのです。いわゆる霊長としての値打ちを、発揮出来ずして、終わっていく人間が、まずほとんどです。ですからそこに気付かせて頂いた、ほんのわずかの人がです。これが成る程、人間は万物の霊長と教えられるが、万物の霊長である、いわゆる値打ちだと、その値打ちを愈々出して行く。ですからこれだけの事が分かったら、成り行きを大事にしなければおられません。
 この様に道理に合うた信心はありません。事柄の一切を愈々霊長としての値打ちを、研き出して行く為に、これ程素晴らしい道理に合うた信心はない。御事柄としての頂き方という。これが真の信心だと。そして最近言われる五つの願い、是等はもう愈々人間、万物の霊長でなからなければ出来ない事。だからその事を実際にです。行じておるかどうかと言うことなんです。その事が徹底して行じられる時に、霊長としての値打ちと言うか、言うなら霊光を放つ程しのおかげを受けられるのです。
 これは人間以外のものが、如何にどう務めた処で、そういう光を放つ様な事は出来ません。人間だから出来るのです。だから如何に万物の霊長だと言うてもです。その霊徳を研こうともしなければ、霊長としての自覚もないとするならば、只人間として生まれたと言うことだけであって、人間に生まれた値打ちと言うものはない。いわゆる値打ちを、とうとう自分も味わう事もなしに、一生を終わって行かなければならないなんて、こんな言うならつまらん事はない。
 そんならどういう信心をさせて貰うたら、霊長としての値打ちを自覚出来るか、又は霊長としての、値打ちを出して行くことが出来るかと言うことは、今合楽でハッキリ頂いておるのが愈々、成り行きを大事にして行くと言う事。そして全ての事を御事柄として受けて行くと、そういう徹した信心から何が生まれて来たか。そこから体験させられるもの、それは只有り難いと言うものが、育って来るのです。
 愈々五つの願い等の、内容を分からせて貰うて、願わずにはおられん所まで高められて参りましたら、愈々喜びは大きいです。何故人間は信心をしなければならないか。信心をするなら、何故真の信心でなければいけないか。その真の信心とはと、ハッキリ体験に基づいて、成る程是こそ真の信心だと言われて参りましたのが、今合楽で成り行きを大事にする。御事柄として受けきって行く。
 そして五つの願いの成就を願わせてもらう。ですからね。只お参りをしてお願いをして、おかげを受けるというだけの信心から、一歩も出ないとか成長しないとするならば、それでおかげを受けても、霊長としての値打ちをはっきする事にはならない。私は何でも同じですけれども、その頂いておるものを、発揮出来ると言う事。自分が何か手に職を持っておるならば、その職が十分にはっき出来なかったら。
 それを稽古した値打ちはないでしょう。どんな素晴らしい技術なら技術を、身に付けておりましても、それをね発揮しなかったら、有るも無いも同じでしょう。それを十分に生かす。発揮出来て初めて有り難い事になって来るのですから。信心を頂いておりますと言うだけでは、どんなに素晴らしい話を、頂いておったり、信心をさせて頂いとりましても、金光教と言う素晴らしい信心をさせて貰っておってもです。
 合楽と言う素晴らしい所にご縁を頂いておってもです。どんなに素晴らしい事を知っておってもそれを現す、発揮しなかったらもう値打ちは無いです。その値打ちを教祖様は、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をさせて貰うて、霊徳を受けいわば、霊長としての光を放つおかげを頂かねばならんと、教えておられるのです。沢山合楽でも信心のおかげを頂き、又は信者さんがおられますけれども。
 そこの所の道理を一つ心得て、そこの処を分かって信心を進めて行かなっかたら、値打ちは無いです。そこから生まれてくる信心の喜び、言うなら霊光と言うかね。自分の心が輝き出す。心に光が点じられる。これは今合楽ではこの申しますような所を、本気で行じておらなければ有り難い物になってこないです。有り難いと言いよっても、それは本当の物じゃ無いです。只自分の都合の良か時には有り難い。
 寒がひどければ、ひどいでそれが有り難い。真夏の暑さもう本当にその暑さに、お礼が言えれる有り難い。春の花秋の紅葉と、いわばそういう都合の良い時だけは、有り難いけれども、夏の暑さは嫌だ。冬の寒さは有り難くないと言うのはね、まだまだ所謂霊長としての値打ちを発揮出来ていないから有り難くないのです。神恩報謝と言うのはです。そういう真の信心をさせて頂いておれば、必ず有り難いと言う心に触れる事が出来る。その有り難いと言う心がです。お参りという形になり、御用という形になって来る。
 もう絶対のこれは生神への道です。信心しておかげを頂いて、有り難う御座いますと言うて、家でぬくぬくと寝ておるような事で、神恩が分かってるとは言えません。又はこの事をお願いせんならんからと言うて、参って来るのであっても、それは生神の道では有りません。道すがらではあるかも知れませんけれども、過程ではあるかも知れませんけれども、まともに心が神の方へ向かっておるという事ではありません。
 ハッキリ生神へという姿勢生神へ向かうと、例えばそれは千里の道であっても、一歩でもその千里の道を歩こうと、一歩でも印たらもう生神への道を辿っている事になるのです。それにはどうでも人間は、万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う、成り行きを大事にする。そしてそこから分からせられた物が、御事柄としての頂き方。これ程道理に合うた、誰でも言うならば合点の行く話であり、それを本気で行じて行く所に、有り難いという心は愈々募ってくる。
 そういう募ってきた心がです、止むに止まれん心がです。神恩報謝の心がお参りという事になり、修行という事になり御用という事になって、そこに打ち出されたのが、五つの願いなんです。いわゆる神恩報謝の心からなんです。だからそういう信心に、お互いの向きが向いておるかどうかという事なんです。何故、信心しなければならないか。何故成り行きを大事にする、御事柄として受けて行くことが、真の信心なのかという事を、言うなら、あらゆる角度から聞いてきた訳です。
 それは人間は万物の霊長であるから、万物を見て、道理に合う信心をさせて頂くという事になるのであり。そこから暑ければ暑い、寒ければ寒いで、本当にお礼の言えれる心、有り難いと思う心、その有り難いと思う心が、いよいよ募って来る。その募ってきた心がお参りという形になってくる。それが御用という形になって現れて来る。しかもその御用がです。愈々大きな又は値打ちのある、お役に立ちたいという願いを込めて、五つの願いと言うものがここで言われる様になったんです。
 これはもうそのままが生神への道です。それをね中途半端にせずに、本気で徹しようという心が私は信心だと思う。いや信心生活だと思う。必ずそれに得られるのが有り難いという心。今日は何故信心をしなければならないか。信心をするなら何故真の信心でなからなければならないか。その真の信心をです。これは言うなら私の信心修行に依って、発見させて頂いた。それを私が身を以て、例えば一言で言うと、信心とは有り難くなる稽古だと言えれる事は、これは私の体験から生まれた言葉だ。
 信心とは一言にして言うと、有り難くなる稽古だ。だから有り難くなって行かないとするなら、今私が言っておる、成り行きを大事にしていないのだ。御事柄としての受け方が出来ていないのだと言う事になるですよ。そこが本当にそうだと、感じられる所から五つの願いと言う物が、立てられなければ、本当の五つの願いが五つの願いとしての値打ちになってこないです。
 人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をしなければならない。その有り難いという心でお参りが出来る。有り難いという心で御用が出来る。もう間違いない生神への道を、進むことになるです。御理解抄に「人が人を助けるのが、人間である。子供がこけておるのを見て、じきに起こしてやり、又水に落ちているのを見て、じきに引き上げてやれる。人間は万物の霊長で有るから、自分の思うように働き、人を助ける事ができるのは有り難い事ではないか。
 牛、馬その他の獣は我が子が水に落ちていても、引き上げる事は出来ぬ。人間が見ると助けてやる。牛馬、犬猫の痛い時に人間介抱して、助けてやる事は誰でもあろうがな。人間、病苦災難の時、神様、人間に助けて貰うのであるから、人の難儀な時を助けるのが、人間であると心得て信心をしなさい。」是等も人間は万物の霊長であるから、万物の霊長でなからなければ出来ない事。是をするのが、信心だと説いておられますですね。
   どうぞ。